日本特殊陶業 - 小川修次

#業態転換 #失敗 #2019/9/1

小川修次・日本特殊陶業社長。自動車向けスパークプラグから、半導体向けセラミックパッケージ(PGA)への業態転換を試みた

イラスト:筆者作成(参考:1980/10/6日経ビジネス)

1980年 半導体パッケージに本格投資

  • 前史:スパークプラグで市場独占

  • 背景:半導体時代の到来

  • 決断:半導体向け事業を本格化(1980年)

  • 結果:インテルショック(1997年)

  • 考察:顧客との接点>カネ

  • 日本特殊陶業 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    決断前史:スパークプラグで市場独占

  • 1918年 江副孫右衛門が米チャンピオン社を視察
  • 1921年 日本ガイシでプラグ事業を開始
  • 1936年 上記事業を分離して日本特殊陶業を設立
  • 1937年 (トヨタ自動車の設立)
  • 1949年 株式上場
  • 1962年 小牧工場の新設(愛知県)
  • 1963年 スパークプラグ国内シェア約70%確保
  • 1980年 スパークプラグ国内シェア約70%維持
  • 2014年 スパークプラグ国内シェア約70%維持
  • 森村グループの1社

    日本特殊窯業(以下NGK)の源流は、明治時代に名古屋を中心に発展した森村財閥にある。森村財閥は、輸出用の洋食器、電機・電力会社向けのガイシの生産によって業容を拡大し、一貫して焼き物(セラミック)に関わり、従来の職人の勘と経験ではなく、科学的な生産法を導入する点に特色があった。1921年に森村グループの1社であった日本ガイシが航空機および自動車向け点火プラグ事業を開始し、1936年に同事業をスピンアウトする形で、NGKが名古屋に設立された。

    創業時のNGKの経営を担った重要人物が、日本ガイシ出身の江副孫右衛門である。江副氏は日本で自動車が普及していない1920年代に渡米して、米チャンピオン社の工場視察を通じて、自動車のガソリンエンジンにセラミック製の点火プラグが用いられることを知り、同事業の国産化を決意した。江副氏は点火プラグへの参入の他に、森村グループの各社でセラミック製造現場に科学知識を導入するなど、森村グループ各社が発展する礎を築いた。

    江副孫右衛門氏の伝記(1961年)

    分業案には、かつて東洋陶器の設立や日本陶器から碍子部門を分離したときのように、部内の反対はほとんどみられなかった。消化しきれない受注をかかえて、親会社としても、全く違った分野をめざす点火栓を切り離すことに依存はなかったし、すべてを切りまわしていた江副にとっても、十数年間、自ら着想し、努力してきた子供が、専門会社へ発展することをどれほど喜んだかわからない。

    ただ正直なところ、不確な基盤のうえに発展している自動車や飛行機相手の点火栓だけでは心許ないというので、協議の段階に耐酸モルタルと濾過器の二商品も、あわせて日本碍子から譲りうける話し合いがついた。...(中略)...発足当時のこの会社は耐酸モルタルと濾過器によって補わなければ、企業の安定が期せられないほど足弱な内容を持っていた。

    1961江副孫右エ門伝記編集会「江副孫右エ門:近代陶業史上の一人間像」

    自動車メーカーとともに成長

    NGKの設立から1年後の1937年には愛知県にトヨタ自動車が設立され、NGKは同郷のトヨタに点火プラグを納入し、1949年に株式上場を果たしている。1950年代には自動車(四論トラック・四輪タクシー・三輪車・二輪車)の急速な普及によりNGKは、各自動車メーカーへの点火プラグの納入によって成長。1962年には量産のために愛知県に小牧工場を新設して対応している。

    ちなみに、競合のデンソーが1958年にスパークプラグの生産を開始するまでは、NGKがトヨタ自動車へのスパークプラグの納入シェアを100%握っていたという[*1]。1963年1〜4月時点の国内点火プラグの生産シェアは「NGK73.7%、デンソー19.0%、日立製作所7.3%」[日本特殊陶業株式会社三十年史]であり、NGKが圧倒的なシェアを確保した。

    なお、点火プラグは高温高圧という過酷なエンジン環境に耐えて、着火という作業を繰り返す必要があるため、耐熱性のあるセラミック以外の素材を使うことは難しい。自動車向けの焼物部品という特殊性と、市場がニッチである点、技術革新が少ない点から、創業以来、NGKの競合企業は少なく、市場の勃興期から国内市場をほぼ独占した。1968年の時点でNGKはスパークプラグの国内シェア1位(70%)を確保し、2014年時点でも国内シェア70%、世界シェア1位(40%)を確保している。

    星野茂雄(NGK社長・1967年)

    (筆者注:記者の問)御社はプラグの生産量では、現在、世界第五位の会社で近く、第四位に躍進するという。そして、世界90カ国に輸出をしている。御社のプラグには国際競争力があるということになると思います。国際競争力は、技術の優位性と安いコストということが絶対必要条件ですが、御社のプラグの性能がいいということは・・・

    (筆者中:星野社長の答)アメリカでも、ヨーロッパでも、スパークプラグの原料も、細工をする方法も、だいたい同じです。うちだけにある特異性というものはない。では、なぜ、性能がいいかいうと、第一は、原料である瀬戸物や金属の品質と、それからできあがるプラグの性能というものの調和がうまいためです。

    第二は、日本の自動車はオートバイのように、回転が非常に早いものと、それからノーマルに走るものと、いろいろある。また、日本の道路の条件がひじょうに悪い。こうしたいろんな条件に合わせていかなければならないという必要性から、しぜんに技術が向上したものと思います。

    1967/8/21ダイヤモンド「スパークプラグで世界第4位の会社に躍進する日本特殊陶業」


    時代背景:半導体時代の到来

  • 1948年 トランジスタの発明
  • 1961年 ICの発明
  • 1971年 MPUの実用化
  • トランジスタ→IC→CPUの発明

    1948年にショックレーがゲルマニウムトランジスタを発明し、世の中に半導体の時代が到来した。1961年にはロバート・ノイスのIC(集積回路)の特許が認められ、一つの半導体チップに複雑な回路を形成できるようになった。1971年にはインテルがi4004を発表し、コンピューターを一つのチップに創り上げることに成功し、コンピューターの時代が本格的に開花した。

    特に、i4004というCPUの発明が半導体業界におけるエポックメイキングとなった。インテルは継続的にCPUの性能向上を試みて、1974年には実用的なi8080を発表。コンピューターが小型のチップに収納されたことで、電卓、PC、ファミコン、ロボット、コピー機が高性能化し、コンピューターが人間社会の中に一気に普及した。

    日経ビジネス(1977年)

    広いオフィスには数個の机がゆったりと置かれている。机の上には薄型テレビのような画面とタイプライター風のキーボード、それに受話器がスマートに並ぶ。資料や本の棚はどこにも見当たらない---マイクロコンピューターが普及した198x年のオフィスの描写はだいたいこんなところである。つまりマイコンはオフィス革命の担い手として躍り出ようとしているのだ。

    1977/1/17日経ビジネス「マイコンが変えるビジネス社会」

    歩留まり向上問題

    ICとMPUにおける問題は、複雑かつ微細な回路をどのように保護するかという点であった。チリやゴミが付着すると回路がショートしてしまい、チップの歩留まりが低下したことから、いかに回路を傷つけずに保護するかが課題となった。1960年代までの半導体生産の歩留まりは極めて悪く、生産責任者の多くが「胃が痛い」思いをしてきたという。

    1960年代に実用化された保護技術が、セラミックパッケージによる回路の保護であり、チップの性能を落とさずに保護できるアルミナがパッケージ材料として主流となった。1960年代から1970年代にかけて、ICやMPUの普及により、半導体パッケージという新しい市場が勃興した。

    業界内では京セラが最も積極的に量産投資を行い、1969年には鹿児島県に川内工場を新設して対応。1971年時点で、京セラは月産100万個のセラミックパッケージを川内工場で生産し、インテル、TI、IBMなどの米国企業を中心に納入し、半導体時代の到来を裏方として支えた。

    稲盛和夫(京セラ創業者)

    アメリカのTI社にはよく出かけていたのだが、ある技術者から「こういうものをつくれないだろうか」と持ちかけられた。それは2枚のセラミック板を重ね合わせた、ICを保護するための試作品であった。それを見た瞬間、私はセラミックの歴史が新しい1頁を開こうとしているのを感じた。これは将来、我が社の命運を握る新製品に育っていくのではないか、と直感したのである。...(中略)...

    この多積層セラミックパケージは、当初、電卓用のICに使われ、やがて、コンピュータの心臓であるMPUや通信用半導体のパッケージとしても使用されるようになる。私が最初にTI社で感じた予感は、やがて現実のものとなった。...(中略)

    川内工場は、この半導体パッケージを一路、アメリカに大量供給した。1971年には、川内工場は月産100万個のパッケージを生産しており、世界一のセラミックパッケージ工場となった。もし、川内工場がなかりせば、シリコンバレーの繁栄は違ったものになっていたかもしれない。それほど劇的な幕開けであった

    日経ビジネス文庫「稲盛和夫のガキの自叙伝―私の履歴書」


    決断:半導体パッケージに本格投資(1980年)

  • 1966年 (京セラがIBMに半導体パッケージを納入)
  • 1967年 セラミック製半導体パッケージの生産
  • 1968年 電電公社にパッケージを納入
  • 1980頃 半導体パッケージへの本格投資
  • 1989年 インテル「Pentium」に採用される
  • 序盤戦で京セラに敗北

    1967年にNGKはIC(半導体)向けのセラミック基板の製造を開始し、電電公社(現NTT)の電話交換機向けとして納入した。電電公社との取引開始により、セラミックパッケージに参入する。

    なお、IC基板にセラミック(アルミナ)を利用するアイデアは杉浦正敏氏(陶磁器試験所)が1950年代に提唱しており、国内では日本特殊陶業(愛知)、鳴海製陶(愛知)、京セラ(京都)の3社が、杉浦氏から実用化のための指導を受けており、技術の黎明期には各社とも差はなかった。

    だが、いち早く半導体向けのセラミックパッケージを実用化したのは京セラで、1960年代にIBM、TI(テキサスインスツルメンツ)、インテルの各社への納入に成功しており、対照的にNGKは半導体向けのセラミックパッケージ分野では後発参入となった。1980年の時点で半導体パッケージの世界シェアは京セラが70〜80%握っており、NGKはパッケージ業界の序盤戦で芳しい成果を残すことができなかった。

    半導体パケージに本格投資

    1970年代後半にNGKの社内では「現在自動車の普及はほぼ一巡した」という意見が巻き起こったこともあり、自動車以外の分野に本格投資する方針を打ち出した。そこで、小川修次(NGK社長)は、急速に市場が伸びつつあったセラミック製の半導体パッケージに本格投資する方針を決めた。なお、1980年ごろのパッケージを扱うニューセラミック部門は「休日出勤はしょっ中」[*2]という忙しさであったという。

    NGKの半導体パッケージの強化は、堅実な会社の新事業として話題になり、日経ビジネスは「日本特殊陶業・堅実一点、ニューセラミックスで飛躍期す」[*2]として注目した。

    日経ビジネス(1980年)

    日本特殊陶業は(筆者注:昭和)30年代の一時期を除いて30年以来ずっと無借金経営を堅持、仕入れもすべて現金決済を通している。製品は品質本位、無茶な売り込みや価格競争はできるだけ避けて来た。その中で、プラグ、ニューセラミックの製品技術を蓄積、シェアを広げてきたのである。「石橋をたたいてわたる」「いや、たたいても渡らない」というのが業界内の評価である。

    しかし、この堅実さは新規市場に果敢に打って出れば得られたであろう、成長の果実を失わせる作用もしたのである。そのことを端的に示すのはニューセラミックの急成長だ。京セラの設立は34年。日本特殊陶業よりもはるかに遅れてニューセラミック分野に進出した。京セラの当初目標は「日本特殊陶業に追い付け、追い越せ」だったという。言い換えれば、当時日特陶は京セラのめざすニューセラミックス分野では最大手だった。

    それが40年代の半ばに追い越され、その後差は開くばかり。京セラはニューセラミックス専門なのに55年度の売上高は1000億円を突破する勢いで、日特陶の同分野に比べ4.5倍前後の規模に達している。

    1980/10/06日経ビジネス「日本特殊陶業・堅実一点、ニューセラミックスで飛躍期す」

    小川修次(NGK社長・1980年)

    ニューセラミックに出遅れたと批判されますが、京都セラミックさんなどの立派な成長ぶりを見ると、そう言われても仕方のない面がありました。

    これからは石橋もどんどん渡るつもりだし、丸木橋でも進んで行く気持ちです。もっとも丸木橋だと滑る恐れがあるので、スパイクをはいて渡りますがね(笑い)。ニューセラミックス分野を拡大していることなどから、今は利益率が下がっているが、1〜2年以内には上昇軌道に乗せるつもりです。

    1980/10/06日経ビジネス「日本特殊陶業・堅実一点、ニューセラミックスで飛躍期す」

    インテルに納入成功

    1989年にNGKはセラミックパッケージで要素技術「2ミル」の開発に成功し、インテルの「Pentium」に採用され、京セラとともにインテル向けのパッケージメーカーとなった。

    1993年には羽賀征治が取締役半導体管理部長に就任し、納期を3ヶ月から4週間に短縮して半導体部門の黒字回復を成し遂げた。


    結果:インテルショック(1997年)

  • 1996年 インテルがパッケージ素材を変更
  • 1997年 インテル向けで大量失注
  • 1997年 プラスチックパッケージの生産開始
  • 2000年 セラミックパッケージをIBMに納入
  • 2010年 インテル向けパッケージから撤退
  • 2015年 プラスチックパッケージから撤退
  • インテルショックにより失注

    1990年代を通じてインテルはCPUの性能を向上させるため、パッケージの材料を従来のセラミックからプラスチックに変更する方針を打ち出した。プラスチックはセラミック製と比べて放熱性に優れていたことから、インテルは新型CPU「Pentium2」ではパッケージの全量をプラスチックに転換した。

    このためセラミックとプラスチックが併用された「Pentium」までは、セラミックパッケージとしてはNGK、京セラ、住友金属エレクトロデバイスの各社がインテルに納入したが、「Pentium2」からはプラスチック製のパッケージをイビデンと新光電気が納入し、京セラ、日本特殊窯業、住友金属の各社はインテルから失注する形となった。

    突如としてPGA市場にデビューしたイビデンは、祖業の不振により電子材料への業態転換を急いでいたこともあり、プラスチックパッケージの生産に数百億円という巨額投資で対応した。イビデンの遠藤社長は「確かに冒険。しかし、企業は飛躍のチャンスを逃したらそこで終わり」[*3]と意気込んだという。このため、セラミックパッケージのNGKと京セラはプラスチックに賭けた各社の投資攻勢に対抗できず、インテル向けCPUという大市場を失うことになった。

    週刊東洋経済(1997年)

    ショックに襲われたのは京セラだけではない。インテル向けパッケージのシェアでは五割近くを持つ最大のベンダー、日本特殊陶業もインテルからの受注が6月以降、激減している。インテルは、何を始めたのか。答えは明快。彼らはこれまでセラミックスが中心だったパッケージの素材を、猛烈な勢いで樹脂に切り替えているのだ。

    1997/11/1週刊東洋経済「激震!ICパッケージ戦線」

    樹脂パッケージから撤退

    2002年12月にNGKの新社長に羽賀征治が就任。羽賀社長は半導体事業の責任者を歴任し、業界内でも「ミスター・ハガ」と呼ばれた人物であったが、2000年代を通じてイビデンと新光電気が掌握するインテル向けのプラスチックパッケージの市場を奪還することはできず、徐々に事業が行き詰まる。

    なお、2004年3月に羽賀社長は体調不良のために社長職を退任。その直後の同年8月に64歳で羽賀元社長は逝去した。

    以後もNGKはイビデンの牙城を崩すことができず、2010年にインテルへのパッケージ供給を中止し、2015年にプラスチックパッケージからの撤退を発表した。2016年3月期のNGKにおける半導体関連事業の売上高は356億円に対し、営業損失は47億円であった。

    2010年代を通じてNGKは半導体部品事業の赤字が縮小したことで、スパークプラグを中心とする全社利益率の改善に繋がった。

    窯業の歩み(日本特殊陶業)

    日本特殊陶業では、もともとオーガニックパッケージの考えは持っていたが、ユーザーの意向を待って切り替えた。そのため後発となり、MPUの総合パッケージメーカーとなるまで5年の月日が流れていた。セラミックとオーガニックの両方のパッケージを生産しているのは日本特殊陶業だけである。特許の問題や、先発ではない苦労もあり、現在は独自の方法で生産している。技術革新は、その時代の必要に応じて求められるものである。

    独立行政法人産業技術総合研究所中部センター「窯業の歩み」


    考察:顧客との接点>カネ

    日本特殊陶業は日本を代表する高収益企業で、自動車向けのスパークプラグ事業では、国内シェア70%を数十年にわたって維持する異色のセラミック企業である。1980年に小川修次社長が、スパークプラグによって稼いだ潤沢な利益を用いて、開発費用のかかる半導体パケージに投資し、自動車事業に変わる稼ぎ頭にしようと試みたのは、きわめて当然の成り行きであった。

    ところが、半導体パッケージ業界の序盤戦(1970年代)を制したのは、金のないベンチャー企業「京セラ」であり、パッケージの素材がセラミックからプラスチックに変化した時(1990年代)に対応できたのは、本業がボロボロでこれまた金のない「イビデン」であった。他方、日本特殊陶業は、潤沢な資金があるのにもかかわらず、半導体パッケージの業界戦争に勝つことができず、2010年にインテルへの供給を諦める結果となった。

    なぜ、日本特殊陶業は金があるのにもかかわらず、半導体パッケージという投資額がモノを言いそうな産業で負けたのか?それは、インテルにとって重要なのは「仕入先の投資額」ではなく、「市場の黎明期から一緒に開発してチップの性能向上を図る」ことだからである。CPUは単に微細化だけが要求されるDRAMとは違い、緻密な設計が必須で、パッケージに使う各種素材がチップの計算能力に影響がないように配慮する必要がある。したがって、インテルにとって大事なのは、仕入先が二人三脚で協力するかという点であり、投資額は二の次の問題となる。

    資金が十分でも、顧客との接点が十分になければ参入がうまくいかず、素材の技術革新に遅れても未来はない。人類の進歩に貢献できそうな産業ではあるが、開発者の健康には良くなさそうである。「胃の痛い」産業であろう。



    参考文献

  • [*1]2001/5/12週刊東洋経済「森村グループ・日本陶器"復活"の夢」
  • [*2]1980/10/6日経ビジネス「日本特殊陶業・堅実一点、ニューセラミックスで飛躍期す」
  • [*3]1997/12/01日経ビジネス「イビデン・半導体パッケージで大躍進」
  • 1967/8/21ダイヤモンド「スパークプラグで世界第4位の会社に躍進する日本特殊陶業」
  • 1997/11/1週刊東洋経済「激震!ICパッケージ戦線・インテル王国に"隷属"する日本勢」
  • 2004/9/3日経新聞夕刊p5「元日本特殊窯業社長羽賀征治氏---半導体部門を収益の柱に(追走録)」
  • 独立行政法人産業技術総合研究所中部センター「窯業の歩み」(公開パワポ資料)
  • 1967日本特殊陶業「日本特殊陶業株式会社三十年史」